2026年2月13日
すべての人に裨益するデジタル社会の開始を告げるCPS
民間データの拠出が拓く「経済発展と社会課題解決」の新たな地平
ANDO SHUN
安藤 俊
伊藤忠テクノソリューションズ株式会社
テクノロジー戦略グループ担当役員代行(兼)CTO
1. はじめに:CPSの真価を引き出す「信頼」の領域
2030年代、次世代通信技術(5G/6G)と認証技術により、サイバー空間(インターネット上に形成される仮想空間)とフィジカル空間(私たちが現実に暮らす世界)が融合する「サイバー・フィジカル・システム(CPS)」が産業社会の新たなプラットフォームとなる。
CPSの実現により私たちの社会は大きく変わる。例えば、車の整備。所有する車の走行に関するデータをリアルタイムで常時取得し、変調があった時にその原因を分析し、必要があれば車を修理することができるようになる。車検と点検整備を定期的に実施する現行の制度的なメンテナンスに代わって、故障や事故を予防し、場合によりコストも下がるサービスが実現できるようになる。
ITが既存の様々な技術と掛け合わされてビジネスを変え、全ての人に裨益するデジタル社会に近づいていく。デジタル社会を体に例えるなら、CPSは神経、データが血液でAIは知能である。日進月歩で進化を続けるAIに比して、現在のサイバー空間に存在するデータは虚実こもごも、全面的な信頼を置くには遠い。
政府がSociety 5.0で掲げる「経済発展と社会課題解決の両立」を実現するためには、責任ある主体が真正なデータを拠出し、ガバナンスの効いた「信頼の領域」をサイバー空間に構築することが欠かせない。
企業内には、機密データ、決められた条件で生成するデータ、技術適合を証明するデータ、個人情報等などが保管されている。本稿では、真正データによる技能継承の解決策を軸に、民間企業が果たすべき役割とオープンな共創がもたらす未来像を提言する。
【図表の説明】フェーズ1として2030年までに私たちが目指す真のデジタル社会変革に向けて事業者と協業してCPSを完成し、セキュアな商業向けサイバー空間をサービスとして提供することを目指す。その後も機能を追加し、NTNなどの空間も加え、物理空間における各種統制をサイバー空間でも適用していく。その後、フェーズ2.3と進み2050年までには真のデジタル変革への挑戦により、従来では解決困難であった社会課題の克服を目指す。
2. 私たちが直面する課題:働き手不足と技能承継の危機
少子高齢化が他国に比べ急速に進んだ日本では、働き手の不足が産業や行政の現場で深刻な影を落としている。企業社会では、日本の競争力の源泉であった「熟練技能」が消失しかねない。五感を駆使して状況を判断する熟練技能は、単純なマニュアル化では継承できず、時間の経過とともに産業そのものの持続性を脅かしている。
例えば高圧電線保守の現場では、ベテランの高齢化と若手不足により、産業インフラである送電網をどうメンテナンスしていくのか、課題を突き付けている。技能継承の問題は製造業やプラントにも及ぶ。
3. 問題を解決する道筋
技能継承問題は、「暗黙知」が支える匠の技をAIに移し、ロボットと掛け合わせて、ロボットが自律的に判断できるようにすれば、解決することができる。フィジカル空間で匠たちは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった感覚を駆使して判断しながら作業を行っている。この感覚をデータ化して分析し、ロボットにフィードバックすれば、匠の技を代替できる。
電力会社では、電線保守業務にかかるベテラン作業員の仕事を状況把握のために画像に記録している。この画像に加えて、気温、湿度、音、光、作業中の力の入れ具合といったデータを収録していけば、やがて作業員は高所に上ることから解放されてチェックする役割に回ることができるはずだ。
ヒトの感覚をデータ化することは非常に困難なチャレンジである。データ化できても企業内にとどまるのではないか。現在でも、機器類を定められた条件の下で実機を使って得た価値の高いデータは、カタログの諸元や技術適合のエビデンスにだけなって、非公開のままになっている。その総量のわずか1-2%が、現在のネット空間に存在するデータ量とほぼ同量と目されている。
公開により対価を得られる仕組みを整えて、ダークデータをサイバー空間に拠出してもらう。責任を引き受ける人だけがアクセスするようにすることで、ガバナンスの効いた「信頼の領域」が構築できる。カントリーリスクの低い国家ほど経済活動が活発になるように、「信頼の領域」がいわば良貨が悪化を駆逐するようにサイバー空間に増えて、次なる経済発展の土壌になるはずである。
4. 世界で進むデータ真正性確保の取り組み
データの質を引き上げる動きはすでに国際的なルール形成の段階に入っている。
EU:EU AI Act;健康や安全基本的権利などの保護を確保しながらイノベーションを支援することを目的に、2023年に制定。AIの影響に関して4つのリスクレベルを設け、各々のリスクに応じた要件・規制を設定、医療機器や生体認証、重要インフラなどの「ハイリスク領域」については、プロバイダーや販売業者などに対してデータガバナンスや技術文書の作成、ログ保存などの規制を設けている。
米国:2023年10月の大統領令は「AIの無責任な利用により、詐欺、差別、偏見、偽情報といった社会的な害悪を悪化させ、労働者を失業や無力化の危険にさらし、競争を阻害し、国家安全保障に対するリスクを引き起こす可能性がある」としたうえで「結局、AIは、基盤となるデータの原則を反映する」と指摘。国立標準技術研究所(NIST)は「コンテンツの起源や履歴に関する情報を記録することで、真正性や信頼性を確立することに役立つ」としている。また、米国の画像編集ソフトを展開する企業などが主導して、写真や映像が撮影された日時、場所、撮影者などの出所情報や編集情報をデータとして埋め込み、誰でも確認できるようにすることでコンテンツの信頼性と透明性の向上を目指す取り組みが進められている。
日本:2019年1月にスイスで開催された世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で、「Data Free Flow with Trust(DFFT)」の考え方を提唱。その後、DFFTを具体化する国際的なルール作りを開始。実際にデータを安全に流通させるための技術的・法的側面を検討する組織を経済協力開発機構(OECD)のもとに作ることになった。
また、DFFTの「民間における実装」を推進する組織として、一般社団法人 データ社会推進協議会(DSA)が活動している。当社はデータの真正性を技術的に担保すべく「DID/VC共創コンソーシアム」を設立(2023年10月)したほか、注力4分野の中でもデータの質を高めていく取り組みを据えている。また、当社の「みらい研究所」もこの面での研究を進めている(詳細は富士榮尚寛同研究所長の別稿に譲る)。
5. インターネットの歴史に学ぶ「オープン共創」の理念
インターネットの歩みは、技術公開と企業の能動的な参加による「課題解決の歴史」そのものだった。私自身、1987年の入社以来、アナログ信号中心だった初期のインターネットのサービス化に関わり、次いで某通信事業者のみなさんと携帯電話とネットをつなぐ仕事に携わってきた。かつてはプライバシー侵害が懸念されたインターネットも、認証、課金、アクセス権限の機能を組み込むプロトコル(共通ルール、規約・手順)を積み重ねることで、数千万人のユーザ一人一人が安心して快適に使えるインフラへと進化した。
この進展を支えたのは、特定の企業が技術を囲い込むのではなく、アイデアを出し合い標準化を進める「オープン共創」の理念だった。
真正性が確かめられた自社データの供出とともに、対価もセキュリティも得られる仕組みづくりの知恵を出し合っていこう。CPSの時代に置いても「オープン共創」の理念こそが法・技術的課題を解決する力となる。
6. 結びに:CTCの社会的責任と「Technology Vision」
新しいデジタル社会の実現に向け、技術を社会へ実装していく営みは、まさに私たちCTCが長年取り組んできた使命そのものである。その姿勢をより明確に示すために、私たちは社内議論を重ね、「Technology Vision」を策定し、新たな社会の羅針盤として公開した。目指す社会像を官民で共有し、あらゆる人が技術の恩恵を享受できる未来をともに築いていきたい。
Technology Vision が掲げる“さらなる経済発展と社会課題の解決の両立”というビジョンは、技術を公益のために活かしたいというCTCのDNAに深く根ざしたものだ。自社製品を持たない私たちは1990年代、ユーザの便益を最大化すべく、SunやCiscoといったオープンな次世代の優れた技術をいち早く日本に導入し、インターネットのバックボーンを築き上げた。
先端技術を人々の暮らしに役立つ形で社会に実装していく。それが、志を共にする企業とともに私たちCTCが歩んでいきたい未来である。
※ Technology Vision 「CTCグループ技術戦略」を構成する3文書のうちの一つ。技術戦略を社会課題の解決や持続可能な未来づくりに直結させている。2050年までの長期に視野が及んでいる点、技術を公開して多くの企業が関与して社会に実装する「オープン共創」を打ち出している点に特色を打ち出している。残る2文書は、今後社会実装される技術のレーダーとなる「Future of Technology」、各組織の主体的な取組を共有して顧客への実装のためのフレームワークである「個別テーマビジネス化ガイドライン」で、いずれも社内資料になっている。
本記事の内容は筆者個人の見解であり、所属する会社の公式な意見や方針を示すものではありません。掲載情報の正確性・妥当性には配慮しておりますが、ご利用に際しては、利用者ご自身の責任においてご判断ください。特に投資・投機に関する行動は、リスクを十分にご理解のうえ、自己責任でお願いいたします。必要に応じて、専門家へのご相談を含め、適切な対応をご検討ください。