2026年6月8日
量子コンピューティングは
「他人事」でなくなった
クラウド黎明期と重なる「静かな転換点」を、
SIerの現場から読み解く
MATSUMOTO NAOKI
松本 直樹
伊藤忠テクノソリューションズ株式会社 テクノロジー戦略グループ
リードスペシャリスト
10万物理量子ビットの衝撃
「量子コンピュータは研究者の道具だ」——そう思っていた企業のIT担当者の認識を変える出来事がありました。2023年12月、IBMが早ければ2033年には10万物理量子ビット、2000論理量子ビット級のシステム実現を目指すロードマップを公表したことです。
Googleが2019年に量子超越性を達成した際の量子ビット数は53量子ビットでした。IBMが2033年に目指す10万量子ビットは文字通り、桁違いのスケールです。国内でも富士通やNTTが独自の量子技術開発を進め、政府も「量子技術イノベーション戦略」のもとで投資を加速させています。「2030年代の実用化」は、絵空事ではありません。
IT担当者にとって「他人事」ではなくなった、もう一つの根拠が、桁違いの物理量子ビットにより、実用化の壁とされた「エラー」の問題を乗り越えられる可能性が見えてきたという点です。この「エラー」を理解するためには、そもそも量子コンピュータの仕組みを概略理解する必要があります。
「重ね合わせ」が生む指数関数的な計算力
古典コンピュータの基本単位はビット——0か1かのどちらかです。一方、量子コンピュータが扱う量子ビット(qubit)は、0と1が同時に「重ね合わさった」状態を保つことができます。たとえば3量子ビットあれば、23=8通りの状態を同時に表現できます。重要なのはこの「同時に」という点で、古典コンピュータが8通りを1つずつ順番に計算するのに対し、量子コンピュータはすべての組み合わせを並列に処理できます。量子ビット数が増えるほど、この並列性は指数関数的に拡大します。
さらに「量子もつれ」と呼ばれる現象を使うと、複数の量子ビットの状態を連動させることができます。重ね合わせが「1つの量子ビットの並列性」を生むとすれば、もつれは「複数ビットが連動することで探索できる組み合わせをさらに指数的に広げる」働きをします。これにより、膨大な組み合わせを一度に探索するような計算——分子シミュレーションや最適化問題——で古典コンピュータを大きく上回る可能性が生まれます。
得意なのは、組み合わせが爆発的に増える問題や自然界の振る舞いを忠実に模倣するシミュレーションです。
エラーの正体
量子ビットの0と1が重ね合わさった状態は極めて繊細で、外部からのわずかな振動・電磁波・熱ノイズといった環境の干渉によって瞬時に崩壊します。これを「デコヒーレンス」と呼びます。量子ゲート操作(量子版の演算処理)そのものにも1回につき0.01〜0.1%程度のエラーが入り込み、複雑な量子ゲート操作を繰り返す度に答えが壊れてしまいます。
この課題に対するアプローチが「量子誤り訂正(QEC: Quantum Error Correction)」です。複数の量子ビットで同じ情報を保持し、一部がエラーを起こしても多数決の原理で正しい状態を特定できる——それがQECの本質です。具体的には複数の物理量子ビットを束ねて1つの「論理量子ビット」を構成し、個々にエラーが生じても束全体の相関を観測することで検出・修正するという考え方です。
この物理量子ビットを増やすことでエラー率(論理エラー率)を低下させることが可能になった、という論文が示されました。以下にその論文を紹介します。
論文紹介
Quantum error correction below the surface code threshold
Google Quantum AI ほか|Nature vol.638, 2024年12月
Googleの量子チップ「Willow」を用いた実験で、物理量子ビットを増やすことにより論理エラー率が低下するという理論を世界で初めて実証した論文です。「表面符号(Surface Code)」と呼ばれる誤り訂正方式を採用し、物理量子ビット数を増やすほど論理エラー率が指数関数的に低下することを確認しました。これは物理量子ビットのエラー率が閾値以下となったことを結果的に示しています。
クラウド黎明期との既視感
CTCはSIerとして、クラウドやAIといった先端技術が「研究レベル」から「企業の現場」へと遷移する転換を何度も経験してきました。クラウドが「研究者の道具」から「企業インフラの当たり前」になるまで、およそ10年かかりました。その転換期に先行投資した企業が、その後の競争で大きなアドバンテージを持ったことをCTCは現場で見てきました。量子コンピューティングは今、あの黎明期に似た”実利用が具体的に見えてきた”という転換期の期待が高まっています。
SIerとして今、何を準備するべきか
では私たちは今、何をすべきでしょうか。
CTCは現在、量子コンピューティング人材育成に向けたトレーニング、お客様のビジネス領域の中で量子コンピューティングを適用するための調査・アセスメント、量子サービスを活用したPoCの実施を進めています。量子コンピュータが古典コンピュータを完全に置き換えることはありません。両者はむしろ補完関係にあります。量子が得意な計算処理を担い、古典コンピュータが残りを担うハイブリッドな活用が現実解であり、そのアーキテクチャを設計し顧客システムと繋ぐ役割こそ、SIerに求められる価値になると考えています。
次回以降は、創薬・材料開発・最適化といった具体的な産業領域に踏み込み、量子コンピューティングが何をどう変えるかを掘り下げていきます。
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