「三方よし」をグループ企業理念に掲げ、創業以来160年以上にわたり持続的な商いを続けてきた伊藤忠商事株式会社(以下、伊藤忠商事)。企業価値の持続的向上を目指す同社にとって、重要な取り組みの一つが環境データの開示である。しかし、国内外のグループ約600社から表計算ファイルを手作業で作成・収集・集計する従来の方法は限界を迎えていた。
有価証券報告書への記載義務化が迫る中、同社は環境データ基盤の抜本的な刷新を決断。伊藤忠テクノソリューションズ株式会社(以下、CTC)は、要件整理からツール選定、導入、展開、そしてグローバルの運用体制構築までを一貫して支援した。本稿では、巨大組織の意識変革にまで踏み込んだ“One Team”の取り組みを追う。
伊藤忠商事株式会社 准執行役員 IT・デジタル戦略部長 浦上 善一郎氏
「表計算ファイルのバケツリレー」からの脱却
2024年4月、伊藤忠商事は中期経営計画の代わりに、長期的な経営方針と単年度計画を組み合わせるスタイルへと転換した。VUCA※の時代において同社は、不透明な3年先を約束するより、ぶれない羅針盤を持つことを選んだのだ。目指すは「企業価値の持続的向上」である。「SDGsへの貢献・取り組み強化」を通じた企業ブランド価値の向上は、そのための取り組みの一つだ。投資家が、財務情報だけでなく非財務のESG情報を重視し始めた昨今、環境データを精緻に開示することは、単なるPRにとどまらず、企業価値を左右する重要課題となっている。
しかし、これまで同社では肝心の環境データは“人力”で集計されていた。
「国内外600社にものぼるグループ会社それぞれに対して、必要な情報を表計算ファイルに入力してもらい、メールで回収し集計する──それはまさに『表計算ファイルのバケツリレー』でした」と、本プロジェクトのオーナーである浦上 善一郎氏(現・伊藤忠商事株式会社 准執行役員 IT・デジタル戦略部長)は振り返る。
温室効果ガスの排出量のみならず、水資源や廃棄物、生物多様性への影響など、収集すべき項目は年々増加している。その度にマクロを修正して、各国の担当者に配布する。戻ってきたデータに不備があれば、また問い合わせを行う。サステナビリティ推進部としては、過去のデータを分析し、全社的に環境負荷を下げる施策に重点を置きたいが、集計作業に多くの時間を取られてしまっていた。さらに、有価証券報告書へのサステナビリティ情報の開示が義務化されるため、人的ミスが許されない状況の中で、集計業務の負荷は大きく、改善が急務だった。
現場のリアルを知るCTCが、最新SaaSとレガシーデータの架け橋に
600社をつなぎ、伊藤忠グループの環境データを収集・算定するシステムを導入するというプロジェクトの始動にあたり、浦上氏は明確な方針を打ち出した。それは「スクラッチ開発はしない。世の中のベストプラクティスを使う」というものだ。
「会計上のデータを集めるような非競争領域は、世の中にある優れたSaaSを活用し、スピーディに対応すべきだと考えました」(浦上氏)
複数のERPパッケージやSaaSを比較検討した結果、選ばれたのはBooost社の「booost Sustainability」だった。決め手となったのは柔軟性だ。ESG領域は、算定ルールや収集項目が確立しておらず、プロジェクト進行中にも要件が変わる可能性がある。大手ERPでは改修コストが莫大になるが、同社のソリューションは、SaaSでありながら柔軟なカスタマイズが可能だった。
しかし、ツール選定はスタートに過ぎない。世界中に存在する600社の担当者がそれを使いこなし、正しいデータを入力してくれなければ、それはただの“箱”になってしまう。真に重要なのは、導入後に現場が確実に回る仕組みを作ることだ。
伊藤忠グループの中核IT事業を担うシステムインテグレータであるCTCは、グローバルの“運用”を支える存在として、明確な期待を寄せられた。具体的には次の3点である。
1つめは、運用への解像度の高さだ。CTCには、現場のリアリティに対する想像力がある。単にシステムを作るだけでなく、ヘルプデスク機能(BPO)やマニュアル整備までを含めた“運用の全体図”を描き、現場が使えるかたちに落とし込むことが期待された。
2つめは、“レガシーとモダンの架け橋”としての能力である。最新のSaaSを導入する一方で、蓄積された表計算ソフトのデータの移行もしなければならなかった。
「SaaSベンダーは最新の仕組みには強いですが、手作りの古いデータを移行することは不得手だったりします。その点、CTCはスクラッチ開発の経験も豊富で、パッケージではないシステムについても深く理解しています。既存システムとの連携やデータ移行において、大きな安心感がありました」(浦上氏)
3つめは、CTCが持つ科学的知見だ。CTCは、古くから気象シミュレーションや橋梁の老朽化解析など、科学技術計算の分野で実績を積んできた。サステナビリティ情報の開示には、GHGプロトコルや環境法令といった専門知識が不可欠となる。単なるITベンダーではなく、理系的・科学的バックグラウンドを有するCTCは、環境データの取り扱いに長けていたのだ。
期待する一方で、身内に甘くはしない。浦上氏は、伊藤忠商事とCTCの関係性をこう説明する。
「グループ会社だからといって、馴れ合いはありません。身内だからこそ、言うべきことは言いますし、提案内容がダメなら差し戻します。また、他社提案含めた評価もします」(浦上氏)
業務部門とIT部門が“両輪”に。One Teamで機能するプロジェクト体制
2023年、プロジェクトは本格始動した。このプロジェクトを成功に導いたポイントの1つに、伊藤忠商事の強力な推進体制がある。通常、システム導入は情報システム部門か業務部門のどちらかが主導し、もう片方の関与は薄くなりがちだ。しかし同社は、業務主管である「サステナビリティ推進部」と、システム主管である「IT・デジタル戦略部」の責任者がともにプロジェクトオーナーとなり、“両輪”となって並走する体制を築いた。
「システム開発においては、責任があいまいなまま進めた結果、トラブルが発生するといったことがしばしば見受けられます。伊藤忠商事として、業務とITの双方が責任を持つ体制を徹底しています」(浦上氏)
現場の業務ルールに精通したサステナビリティ推進部と、プロジェクトをしっかりとリードし、全体最適を担うIT・デジタル戦略部。この強力なツートップが意思決定を行う中で、CTCはBooost社と共に“One Team”となって取り組んだ。ウォーターフォール型の進行に固執せず、トライアル運用を挟みながら段階的に軌道修正を行う、アジャイル的なアプローチを採用した。
最大の難所は「承認フロー」の標準化だった。8つのカンパニー、600のグループ会社において、環境データの確認責任者は一律ではない。組織単位ではなく、複数の組織をまたぐ業務単位で情報を管理しているケースもあった。無数に存在する業務フローを洗い出し、どれをシステム上の標準とするか──CTCは、関係者と何度も議論を重ね、一つひとつ解を導き出していった。
伊藤忠商事が舵を取り、CTCが複雑な実務を紐解き、地盤を固める。チームの役割分担は適切に機能し、プロジェクトは迷走することなく進んでいった。
システム導入後の承認フロー概要図
「彼らがいなければ回らなかった」現場の声が証明する、CTCの運用サポート
本プロジェクトは2年計画で進められたが、SaaSのカスタマイズと導入にかけたのは前半1年である。残りの1年は、600社への教育と過去のデータ移行が徹底して行われた。
表計算ファイル入力業務のフローを変えることは、現場にとって大きなストレスとなる。ここでCTCは、縁の下の力持ちとしての真価も発揮した。日本語・英語・中国語の3ヶ国語による詳細な操作マニュアルを作成し、全拠点向けの説明会を実施。さらには問い合わせの一次受け窓口となるヘルプデスクを担った。データ入力のピーク時には、月間200件もの問い合わせが殺到したが、一つひとつの問い合わせに対し、CTCは、グループ会社でBPO業務を担うCTCファーストコンタクト(株)と共に、伊藤忠商事のサステナビリティ推進部に代わって丁寧に対応し、データ入力をサポートし続けた。
「CTCの運用支援がなければ、とても回りきらなかったでしょう。当初、BPOは徐々に減らしていく予定でしたが、『彼らがいなければ新しい開示要求に対応できない』という現場の声を受け、継続をお願いしているほどです。プロジェクト終了後、サステナビリティ推進部からは『やってよかった』『大いに助かった』という声をもらいました。ユーザー部門の満足度は極めて高いと言えます」(浦上氏)
算定から戦略へ。次なる開示基準への挑戦
2024年、伊藤忠グループの環境データを収集・算定するbooost Sustainabilityの導入は、大きなトラブルもなく完了した。入力漏れや桁間違いといったケアレスミスは激減し、カンパニー単位でのデータ可視化も瞬時に行えるようになった。そして何より、データの催促や問い合わせ対応に追われることなく、サステナビリティ推進部が本来やるべき環境戦略に集中できるようになった。
本プロジェクトの成果について、浦上氏はこう振り返る。
「このシステム導入によるROIは?──その問いにあまり意味はないと思っています。なぜなら、これは“経営のインフラ”だからです。正確なサステナビリティデータの開示基盤は、これからの企業が存続するために不可欠な機能です」(浦上氏)
また、プロジェクトを通じて、社内の意識も変わりつつある。
「自分たちの出した環境データが、どう承認され、どう開示されるのか。プロセスが可視化されたことで、内部統制の観点でも、DXへの理解という意味でも、明確な前進がありました」(浦上氏)
環境データの収集・算定はこれで終わりではない。SSBJ(サステナビリティ開示基準)や、Scope3(サプライチェーン全体の排出量)への対応強化など、今後もやるべきことは山積みだ。サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)によって企業価値を向上させる伊藤忠商事の挑戦は続いていく。そして、その傍らには最前線を支えるCTCの姿がある。
- ※ 「VUCA(ブーカ)」とは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の4つの単語の頭文字を組み合わせた造語。先行きが不透明で将来の予測が難しい現代の社会状況やビジネス環境を表している。
伊藤忠商事が掲げるグループ企業理念「三方よし」