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ゴルフダイジェスト編集 世界のゴルファーを魅了する名門コースの流儀

偶然から誕生し、会員の深いゴルフ愛が育てた日本一のコース 廣野ゴルフ倶楽部

ゴルフコースに最適な土地に、深いアリソンバンカーで知られる英国人設計家、ヒュー・アリソンが大地に描いた18ホール。
土地と設計、それは偶然から生まれた組み合わせでした。
高い戦略性を有し、常に世界的に高い評価を得てきたのが廣野ゴルフ倶楽部なのです。

川田氏近影

川田 太三

日本ゴルフコース設計者協会 理事長
株式会社ティアンドケイ 代表取締役社長
1944年、東京都生まれ。米国オハイオ州立大学を経て1967年、立教大学法学部卒業。
ゴルフ場の設計23コース、改造29コースのキャリアを持ち、全英、全米などメジャートーナメントのレフェリーも歴任。

日本を代表するゴルフ場といえば、廣野ゴルフ倶楽部(以下、廣野GC)であろうという見解が定着しています。

2年に1度、米ゴルフダイジェスト誌(以下、GD誌)と米ゴルフマガジン誌(以下、GM誌)が「世界のゴルフコース100」を選出していますが、廣野GCはこれまで日本でのトップの座は1度として空け渡していません。ちなみに2020年、GD誌では13位、18年の50位からごぼう抜きのアップでした(この理由は後述します)。GM誌では2021年発表で39位でした。

廣野の歴史は、それほど古いわけではありません。国内最古のゴルフ場は神戸ゴルフ倶楽部(1903年開場)ですが、それから29年遅れて1932年にオープンしており、全国では24番目となります。同じ関西でも、舞子カンツリー倶楽部(現・垂水ゴルフ倶楽部)、鳴尾ゴルフ倶楽部、茨木カンツリークラブ、宝塚ゴルフ倶楽部よりも新しいのです。それがなぜ“日本一”なのか、ゴルフコース、クラブ(倶楽部)の両面から考察してみたいと思います。

偶然見つけた土地にアリソンは3日で18ホールを描いた

リンクスを彷彿させるバンカー群。2019年にコースを改修して、原設計者のヒュー・アリソンのデザインを復元

リンクスを彷彿させるバンカー群。2019年にコースを改修して、原設計者のヒュー・アリソンのデザインを復元

廣野GCはある偶然から生まれたといいます。1930年当時、9ホールだった舞子CCの役員たちは、18ホールのゴルフ場を造ろうと候補地を訪ねましたが、その土地には失望し、落胆しての帰途、志染村廣野新開を通りかかったところで、地形、風致共にスコットランドのリンクスに好適とも思われる土地を“発見”。その土地は旧三田城主九鬼隆輝子爵のもので、好都合にも同子爵は舞子CCの理事長だったといいます。とんとん拍子に話は決まり、1坪35銭で24万坪の買収契約が整います。ちなみに舞子CCの役員とは、日本のゴルフ黎明期に功のあった高畑誠一、伊藤長蔵らでした。つまり英国ゴルフの知見、良識ある彼らが廣野の会員の中心となったからこそ、クラブとしての見識が確立されたといって良いでしょう。

話を戻します。コース設計はチャールズ・ヒュー・アリソン。これまた偶然に恵まれます。東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のために来日中で、交渉を高畑が担当しますが、最初はルートプランだけでした。実地検分したアリソンはよほど地形が気に入ったらしく、「3日間は誰にも会わない」と神戸のオリエンタルホテルに籠り、4日目の朝、18ホールの1/1,200の設計図を書き上げます。設計料は500ポンド。これを見た高畑、伊藤らはその完成度に感銘を受け、さらに1,000ポンドを払って精密設計図を依頼します。

神戸電鉄粟生線広野ゴルフ場前で降りれば、目の前に落ち着いた雰囲気を持つクラブハウスがたたずむ。

神戸電鉄粟生線広野ゴルフ場前で降りれば、目の前に落ち着いた雰囲気を持つクラブハウスがたたずむ。

1931年2月着工。シェイパー(現場造成監督)は英米の名門コースを実地見学している伊藤、助手は京都帝大農学部を出たばかりの上田治(後に支配人、設計家)。伊藤らは朝霞コースで工事中のシェイパー、ジョージ・ペングレースを訪ねます。ペングレースは米国より招聘され、当時一流の造成監督として知られていました。造成工事は馬車とトロッコで行われ、着工から約1年3ヵ月して完成しています。

グリーンは朝霞コースに倣ってベントワングリーンを採用。ここにも廣野GCの一貫性を感じます。途中第2次世界大戦のため接収され(川崎重工明石飛行場代替滑走路)、紆余曲折を経て、「アリソン設計の完全復元」として再建された時にはコウライグリーンでした。それを1988年、ベントへと戻したのです。芝は変わっても、ゴルフコースの設計上異形である2グリーンにはせず、1グリーンは守り通しました。正統性を貫いたわけです。

日本のアマゴルフ界もリード メンバーたちの高い独立性

バーラウンジにある暖炉。この暖炉の前で日本のゴルフを支えてきた人たちがゴルフ談議に花を咲かせてきた。

バーラウンジにある暖炉。この暖炉の前で日本のゴルフを支えてきた人たちがゴルフ談議に花を咲かせてきた。

クラブは結局、「人」が創るものだと思います。廣野GCには前述した高畑、伊藤、上田らが集いました。終戦後の再建にはGHQの圧力をはねのけた、強い指導力を持った人物が現れます。後に日本ゴルフ協会会長にもなった乾豊彦です。同GC中興の祖といえるでしょう。乾を中心として関西の個人有力企業のオーナーたちが主として会員となっています。その子弟らがクラブの意思を受け継ぎ、競技者としても優秀な人材が集まっています。佐藤儀一、芝本順三、三好徳行、大橋一元、そして中部銀次郎…、そうそうたるメンバーです。日本アマチュア選手権では1936年から5大会連続で、メダリストは同GC所属のプレーヤーでした。

廣野GCの運営が社団法人でもなく、株式会社でもなく、任意団体というのも会員の独立性が保たれている理由でもあると思います。パー3ホールで後続組がオンしても拍手をしない、グリーンにはキャディは上がらず、ボール拭きなどはプレーヤー自身で行う…など独自のルール、マナーも会員たちの合意の元に作られているのです。

2018年、同GCは原初のアリソン設計図の回帰へと舵を切り、全英オープンドクターの異名をとるマーチン・エバートに改修を依頼しました。エバートはドローンなどを駆使して平面図から3次元へと復元(リストア)したのです。これが冒頭のランクアップへとつながった理由だと推測されます。

廣野ゴルフ倶楽部
出典:Best Engine Vol.13

記載内容は掲載当時の情報です。最新情報と異なる場合がありますのでご了承ください。

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