2026年8月12日
第4回 なぜフィジカルAIは
簡単に普及しないのか
フィジカルAIとは何か ―ロボット×AIが拓く新時代―
TERASAWA YUTAKA
寺澤 豊
伊藤忠テクノソリューションズ株式会社
CROグループ アソシエイトプリンシパル
前回は、フィジカルAIの価値はロボット単体ではなく、センサー、エレベーター、デジタルサイネージ、業務システムなどが連携し、空間と業務を再設計することにあると述べました。
では、その考え方が重要だと分かっていても、なぜフィジカルAIは簡単には普及しないのでしょうか。その理由は、フィジカルAIの前には、性質の異なる複数の重い課題が同時に横たわっているからです。本稿では、それらを三つに整理して示します。第一に、ロボットを働かせるための「技術」的な難しさ。第二に、フィジカルAIの開発を担う「人材」の不足。第三に、技術と人材が揃ってもなお残る、「全体最適化」に進む段階そのものの課題です。順に見ていきます。
ロボットを働かせるための技術的難しさ
生成AIの進化によって、AIは人の言葉を理解し高度な問いにも答えられるようになりましたが、そのままロボットに搭載しただけで、現実世界で働けるわけではありません。
ロボットには会話能力に加え、周囲の状況を認識し、目的を理解し、その場に応じた行動を選択して、安全に行動する総合的な能力が求められます。「前方を人が横切る」「床にゴミなどの障害物がある」など、現実の環境は常に変化しており、条件が変われば難易度は大きく上がります。デジタル空間上のシミュレーションでは、基本的にそのような突発的な状況変化は起きないため問題ありませんが、物理空間では事故や設備破損、人身被害につながる可能性があります。
この認識・判断・行動は、人間の脳においては、「大脳」がその役割を担っています。
従来のロボットは、「小脳」の機能を発達させたものになります。「小脳」は身体の動きの調整や運動制御に関わり、従来のロボットも、決められた動きを正確かつ精密に繰り返すことを得意としていました。ですから、工場の生産ラインなど、環境が整えられた場面では大きな力を発揮してきました。しかし、オフィスや商業施設、病院、物流現場のように、人や物の状態が常に変わる空間では、状況を理解して行動を組み立てる「大脳」の機能が求められます。
そこで近年注目されているのが、VLA(Vision-Language-Action)モデルです。
視覚情報、言語による指示、ロボットの行動を結び付けることで、「見て、理解して、動く」を物理空間で実現しようとするアプローチです。しかし、VLAが発展してもなお課題は残ります。ロボットの種類や使用環境などが異なると、訓練済みモデルをそのまま適用できるとは限らず、調整が必要になります。
私自身も実際に経験しましたが、ラボ環境でトレーニングしたロボットを別の場所に配置すると、現場の照明、周囲の音、通行者の動きなどの影響を受け、想定していた認識や判断ができないことがありました。
人間が無意識に行う臨機応変な判断や行動をAIに学ばせることは容易ではなく、多様な状況に対応させるには膨大なデータ収集と学習、それに伴う時間・コストが課題となります。これがロボットの社会実装における大きな技術課題となっています。
フィジカルAI人材の不足
第二の課題は、人材です。フィジカルAIを扱うには、生成AIを含むAIに関する知識、ロボティクスの知識が必要です。それに加え、制御、ネットワーク、セキュリティ、業務設計、現場運用を横断的に理解する必要がありますが、そうした複合的な知識を兼ね備えた人材はまだ市場に十分にはいません。AIやロボットをソフトウェアやハードウェア開発の延長線上だけで扱うのではなく、物理空間を前提にした知見が求められるからです。
しかも、この人材は座学だけでは育ちません。これまでのIT技術は基本的に論理空間上で設計、開発、運用などを行いますが、フィジカルAIの場合はテストフィールドにて実機に触れ、現場に投入し、試行錯誤を重ねて初めて身につく知見が多くあります。ところが、フィジカルAIを適用する現場自体がまだ少ないため、経験を積む機会も限られています。
人材が育たないから案件が進まず、案件が少ないから人材が育たない。この悪循環をどう断ち切るかが問われています。
全体最適化への移行の難しさ
第三に、ロボット単体による特定プロセスの局所最適からの脱却には、いくつかの固有の課題が残ります。
まず、現時点(2026年7月時点)においては、いくつかの単純作業のロボットによる置き換えというものに、実証実験レベルでは成功しているケースも見受けられます。しかし、連続したタスクを順に実施するような作業の置き換えはまだいくつものハードルがあると考えます。
次に、運用の問題があります。フィジカルAIはロボット単体の動作の良し悪しで成否が決まるものではありません。設備や人などと連携を行いつつ、複数のロボットが各自に与えられたミッションをクリアする必要がありますが、今の統合運用管理システムは複数のロボットや設備を管理することができても、各々に快適(最適)な状態を与え続けることができる状態までには達していません。このあたりは技術の進歩により近い将来に解決することができると考えますが、それを必要とする段階にまで至っていないのが現状です。
そして最も注意すべきなのは、ロボット導入が局所最適に向かってしまうことです。
AIブームでも、個別業務の効率化だけが先行し、全体最適につながらないケースが見られました。フィジカルAIも同様に、「この作業をロボットに置き換える」という発想だけで進めると、かえって現場全体の負荷が増えたり、期待した効果が出なかったりする可能性があります。木を見て森を見ずではないが、フィジカルAIの活用を検討する際には、「フィジカルAIで何を実現するか」という発想から入るのではなく、まず業務プロセス全体を俯瞰し、改善の可能性を検討することが重要です。その過程で、今までのテクノロジーでは自動化や機械化が困難だった工程について、フィジカルAIなら実現できるのではないかという観点が求められます。
ビジネスシーンでの適用には、ロボットを動かす技術だけでなく、業務、空間、データ、人の役割を含めた全体設計、すなわち全体最適化が必要なのです。
答えのない問いに、どう向き合うか
技術的課題、開発人材の不足、全体最適化と、同時に存在するこれらの課題に対して世界中の企業や研究機関が、いままさに試行錯誤を重ねている段階にあり、「こうすれば解決する」という明快な答えは現時点では残念ながらありません。
しかし、課題を正しく整理して理解することで、過度な期待や失望を避けることができます。
フィジカルAIは、ロボットの性能が向上すれば自然に普及する、という単純な話ではありません。だからこそ難しく、だからこそ社会実装の余地が大きいのです。
次回は、日本の勝ち筋の一つとも言われる「暗黙知」について考えます。日本には多くの現場があり、そこから生まれる暗黙知がフィジカルAIのパワーの源泉となり、日本の資産になると言われていますが、それは正しいのか、共に考えたいと思います。
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